ハローワークの周囲には不可視の結界が張られている 2013/10/09(水)
斜陽が赤く染まり始めた夕方のことでした。特に目的もなく自転車で街中を徘徊していた僕は、道路を一本間違えてハローワークとシンボルエンカウントしてしまいました。くすんだクリーム色の外壁が夕焼けを鈍く照り返し、魔窟さながらの威圧感を漂わせるその行政機関を前に、僕は思わず尻込みをしてしまいます。
何故だかは判らないのですが、緑色に塗装されたハローワークの文字を見ると、心臓が跳ね上がり精神がざわつくのでした。
しかし、棒立ちしていても仕方がありません。見なかったふりをして通り過ぎることもできましたが、 せっかくの機会だと考え直した僕は敢えてハローワークを利用することにしました。
久しぶりに「求人情報を確認できるPCの前でしばらく瞑想したのち『必死に探してはいるが条件に合う仕事が見つからない』と全身で表現しながらまっすぐ家に帰る」各工程が完全にルーチン化されたロールプレイをやってみるのも良いでしょう。ひょっとしたら近場で楽で給料も良くて社会保障もしっかりとしている職が見つかるかもしれませんし、求職の意志があればニートではなく失業者だと言い張れます。もちろん社会属性ヒエラルキーにおいて求職の意志がある無職はそうでない無職の上に位置しますから、ハローワークの自動ドアをくぐった瞬間に僕の人間ランクは世界中のニートを飛び越え遥かな高みへと上昇するわけです。
うきうきで自転車を降りた僕は、ハンドルを押してハローワークの敷地に足を踏み入れました。
警備員さん達に軽く会釈をしつつ駐輪場まで進み、何かあの前輪をポジショニングする奴に前輪をポジショニング。キックスタンドを降ろして鍵を掛け「いざハロワ!」と正面出入り口へ身体を向けた、その瞬間。
何の前触れもなく、僕の身体の奥底からドス黒い感情が零れ出しました。
脳裏に浮かび上がるのは「求人情報と実務の差異」「建前としての週休二日制」「実質14時間労働/週6日」「営業と現場の摩擦」「唯一の新人としての立ち位置」「直接の先輩がまとも仕事を教えてくれるつもりもない上に今月で辞めるらしい」「考えてみれば無理して頑張る理由もない」などの意味不明な文字列。
命の危険を感じた僕は混乱しながらもハローワークから離れ、車道を挟んだ先にある小さな公園へ駆け込むと、ベンチに力なく倒れこんだのでした。
せり上がった胃酸を飲み込み、ぜいぜいと肩で息をしながら、僕は重い頭を振ります。いったい何が起こったというのでしょうか。とても現実の出来事とは思えませんでした。
認識できる世界の外側からおぞましい何かが這いよってくるような不条理さは、魔術的描写で書かれた恐怖小説であるとか、魔術的手法による中間搾取を髣髴とさせます。
まるでハローワークの周辺に不可視の結界が張られているようで、あるラインから一歩でも踏み入ると容赦のない暴力に襲われる……そんな感覚がいまでも肌にこびりついて離れません。
いずれにしろこの現象の背後には、巨大な何者かの存在を感じざるを得ませんでした。
そこまで思い至った僕は、ベンチにもたれながらハローワーク利用者の出入りを眺め、電撃的に察知します。
これは、無職が減ることを快く思わない勢力によるテロである、と。
それが証拠に他の利用者たちも皆浮かない顔をしています。僕が耐え切れなかった痛みに耐え、ハローワークへ挑む勇敢な戦士達は、しかし出てくる頃にはもっと顔が暗くなっているのです。
これがテロじゃなくて何でしょうか。むしろテロじゃない方が怖いです。
どれほど冷酷な心をしていればこんな恐ろしい陰謀を企てることができるのでしょうか?
影で糸を引いているのは仮想敵国の競争力を落としたい某大国か……。あるいは雇用をコントロールしたい大企業の陰謀でも驚きません。この異常さにはかつて日本転覆を画策した某宗教組織の臭いすら感じます。最悪無軌道なアナキストの破壊行為なのかもしれませんし、ひょっとしたら新自由主義が悪いのかもしれません。
ともかく未だかつてない特殊な――それこそ魔術的な手法によって、心の弱った無職たちが虐げられている。そして、その攻撃自体が敵によって隠蔽されている……事実を客観的に並べれば、その結論しか導き出せませんでした。
この際敵の正体なんて後回しでいいでしょう。くよくよ考えていて誰を救うことができましょうか。
あのブルース・リーだって「考えるな。感じろ」と言っているではありませんか。まずは行動です。
「重要なのは行動そのものであって結果ではない」とはインド独立の父こと、マハトマ・ガンジーの言葉。大切なのは正しい行動をなす心です。
そして“20世紀で最も完璧な人間”チェ・ゲバラも言いました。「勝利か、さもなくば死か!」
勝利――! 僕の心臓に炎が灯ります。哀れな無職たちを救済できるのならば、この命すら惜しくはありません。
使命感で身体を満たした僕は、闘志を込めた視線をハローワーク周囲に送りました。
魔術的な手法を使うからにはたぶん術者的な人が儀式的なことをやっている筈ですが、そこら辺を眺めた感じではそれっぽい姿は見つかりませんでした。
無力な自分が悔しくて、僕は強く、歯噛みしたのでした。
何分、あるいは何十分後でしょうか。空が宵の口に入った頃、僕はやっとの想いで気持ちを落ち着けました。
覚悟を決めて、かの建物に目を向けます。薄暗闇を人工灯の冷たい光で切り裂くハローワークはやはり魔窟以外の何物でもありません。僕は公園⇔ハロワ間の車道を恐る恐る走りぬけ、敷地内へと再度足を踏み入れます。
職探しなんてするつもりは今日のところないのですが、自転車を回収しなければいけません。
警備員さんたちの怪訝そうな視線をかわしつつ駐輪場まで辿りつくと、愛車の鍵を外し、あの前輪をポジショニングする奴から前輪を抜き取ります。長居する理由もありません。小走りで来た道を戻り、安全確認がてら左右に首を振りました。――その時です。
ある若い男性が、ハロワの正面玄関からゆっくりとこちらへ歩いて来たのでした。
彼の服装は僕とほぼ変わりません。適当なパーカーと特徴の無いジーンズです。背格好も同じ程度で、一瞬だけ全身鏡を見たような居心地の悪さすらありました。しかし、彼我の違いは明白だったのです。
男性は堂々と胸を張り、背中をピンと伸ばしています。ゆったりとした歩みに気負いは感じられません。超然とした佇まいで行き先を見据え、全身から満ち溢れる自信を隠そうともせず、その表情には挑戦的な笑みすら浮かべています。
ハローワークを利用するからには、彼とて何かしらの事情があるのでしょう。就職難の煽りを受けてしまったか、首を切られたか、労働環境が苛酷だったか……。
しかしその挫折すら成功への序章だとでも言うように、薄暗い闇の中にありながら、彼の瞳には爽やかな光が輝いているのです。
そう。男性の挙動のひとつひとつからは、前向きな気持ちが溢れ出ていたのでした――
そして、そんな彼とすれ違ったその瞬間、僕はやっと気がついたのです。
結界に覆われていたのは、この心だったと。
想像してください 天国なんてないのだと
やってみればたやすいこと
僕らの下に地獄なんてないし
正社員の下に契約社員もありません
想像してください 国なんてないのだと
難しいことではありません
誰かの為に殺すことも 殺されることもなく
それに学歴教もない
さぁ、想像してごらん すべての人々が
平和に生きているって……
僕のことを夢想家だと思うかもしれない
でも僕はひとりじゃないはず。
いつか君も仲間になって、
きっと世界はひとつになるんだ。
この